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善光寺

撮影 2014.7.27 長野県長野市

善光寺は長野市にある無宗派の寺院である。
その本尊はインドから渡来したとされる阿弥陀如来で、絶対秘仏とされている。
7年に1度(本当は7年目ごとという意味なので、実際には6年に1度。善光寺の公式ウェブサイトには「数え年で7年に1度」と書いてある)の御開帳(前回は2009年で、次回は2015年)にも、本尊は開帳されず、本尊の分身として前立本尊が開帳される。

駐車場が裏側にあるため、車で行くとどうしても裏から入ることになってしまう。
今回は、一旦南側に通り抜けて、参道からまっすぐ入ることにした。



参道入り口から
三門下まで敷き詰められた石畳は、7777枚あるとされている。




仁王門
善光寺地震により焼失し、現在のものは1918年に再建された。
善光寺の山号である「上額山」の額が掲げられている。




三門(重要文化財)
1750年建立



「善光寺」の額。通称「鳩字の額」と呼ばれていて、文字の中に5羽の鳩が隠れている。
4羽はわかりやすいが、もう1羽は?



本堂(国宝)

善光寺の本尊は、欽明天皇の時代(552年)に百済の聖明王から献呈されたものだが、推古天皇の命により本田善光の手でこの地に遷座したと伝えられる。

......

ここで唐突なようだが、お笑いを一席。
「御神酒徳利」という噺は、かつて六代目三遊亭圓生が天皇陛下の前で口演したことでも知られる。
江戸の馬喰町、刈豆屋という旅籠の番頭善六が、店の宝物である御神酒徳利を出鱈目な算盤占いで探し出し、それがきっかけで大阪の大富豪鴻池善右衛門の娘の病気を治しに行く話。
途中、神奈川の新羽屋という旅籠でもうひとつの事件を解決した因縁で、その神奈川の稲荷大明神が夢枕に立ち、娘の病気を治す方法を教えてくれる。

その口上。
「その昔聖徳太子、守屋の大臣(もりやのおとど)と仏法を争いし時、ここ大坂(おおざか)というところは難波堀江と申す一面の入り江である、湖である。
そは中に守屋の大臣、数多の仏体を打ち込み、それが埋まり埋まって大坂という大都会に相成った。
それがため、大坂の土中には、処々に仏像、金像が埋もれおる。
当家は大家である。乾隅四十二本目の柱を三尺五寸掘り下げ見よ。一尺二寸の観音の仏体が現る。それを崇めよ。娘の病気たちどころに全快なし、まった当家は万代不易にこれあるぞ。ゆめゆめ疑うことなかれ。」

善光寺の縁起として伝わっている話はこうだ。
インドの月蓋長者の娘が病気になり、長者は熱心に阿弥陀如来を拝んだところ、幸いにして全快した。
その礼として阿弥陀如来の仏像を作ったのだが、それが巡り巡って欽明天皇の頃に日本に伝わる。
物部の守屋が難波堀江に捨ててしまった中にその仏像があり、本田善光が和光寺(現在の大阪市にある)の池から発見して、信州に持ち帰り、善光寺を開いて本尊とした。
本田善光が開いたので善光寺と言う。

「阿弥陀池」という上方落語にも和光寺が登場するが、善光寺の縁起とは関係がない。

インドの長者の話が鴻池の話になり、阿弥陀如来が観音菩薩に変わっているけれども、大筋では似た話で、御神酒徳利の作者が善光寺の縁起を元に書いたことも考えられる。

善光寺本堂には108本の柱があり、107本は円柱だが、1本だけ角柱があり、それを「守屋柱」と言う。
これは物部守屋の霊を鎮めるための柱と言われていて、参拝者は本尊を拝むとともに、守屋の霊を鎮めてもいるのだと言う。物部守屋は物部氏の最後の当主で、蘇我氏に滅ぼされており、守屋の霊は祟りをなしたらしい。
善光寺は物部守屋の鎮魂のために建てられたという説まであるほどだ。
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