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もうひとつの「米朝十八番」


前回取り上げたのは、1977年(米朝師51歳)に6日連続独演会を行ったときのライヴ録音だった。
http://blogs.yahoo.co.jp/papageno620hop/14160252.html

今回は1979年から1985年にかけて、米朝師53歳~59歳の高座録音からのセレクトである。

演目(※印は、1977年版との聴き比べが可能)
 たちぎれ線香
 本能寺
 天狗さばき
 阿弥陀池
 算段の平兵衛
 百年目※
 仔猫
 骨つり※
 稲荷俥
 七度狐
 地獄八景亡者戯※
 千両みかん
 足上がり※
 鹿政談※
 口入屋※
 宿屋仇
 親子茶屋
 はてなの茶碗
 天狗さし(付録)

さて次の注目は、今月発売になったばかりの「桂米朝、旅のはなし」
これは旅にまつわる噺だけを集めた12席からなる全集で、まず滅多に聴けない珍品である。
不思議に思うのは、こういうものがどうして生前に出て来ないのだろうかということ。

米朝十八番~6日連続独演会


今朝の朝日新聞一面に「米朝36歳の地獄八景」という記事があった。
昨年3月に亡くなった桂米朝の代表作「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」全編を放送で初披露した音源が発見されたと言う。
たまたま「米朝十八番~6日連続独演会」のCDを聴いている途中だったので、特に興味深く読んだ。そんな録音があったのならばぜひ聴いて見たいと思う。

「米朝十八番~6日連続独演会」
1977年7月、桂米朝51歳の時の高座である。
噺家として最も脂の乗り切った時期、サンケイホールで6日連続、合計18席を演じ切った貴重な録音。
米朝師自ら語っているが、この4年前に同じ企画の独演会を試み、途中で体調を崩してしまい、再度の挑戦となったものである。

気力、体力とも最も充実していた時期なのだろう、テンポと言い、その切れ味と言い、他の追随を許さない、超絶的な名演と言っていいだろう。

全18席の内容
 蛇含草
 口入屋
 京の茶漬
 犬の目
 足上がり
 地獄八景亡者戯
 道具屋
 百年目
 寄合酒
 猫の忠信
 看板の一
 鹿政談
 つぼ算
 らくだ
 次の御用日
 鯉舟
 一文笛
 骨つり
多くは爆笑もので、誰にでも楽しめるし、聴きなれた耳にも新鮮さがある。数多の録音から厳選したとしても、このレベルの録音を揃えるのは難しいだろうと思う。

歌丸の「真景累ヶ淵」とゆかりの場所を巡る


桂歌丸と言えば、一般的には演芸番組「笑点」の司会者として有名だ。
「笑点」は立川談志が考案した番組で、もとは深夜番組だった。
1966年から続く長寿番組である。
談志は初代司会者で、毒蝮三太夫が座布団運びをやっていた。(自分が降板して以降の「笑点」について、談志は折に触れて酷評している)
歌丸は第1回から出演している唯一のメンバーである。

歌丸は「青空おばあさん」で有名な古今亭今輔門下だったが、色々あって破門同然の状態になり、兄弟子である桂米丸の門下になった。
彼はもともと新作派であり、新作に興味がない私は、歌丸に注目することはなかった。
近年、歌丸は埋もれた古典の名作や、三遊亭圓朝の怪談噺などの口演に力を入れ、「現代の圓朝語り」とまで言われるようになった。

「真景塁ヶ淵(しんけいかさねがふち)」は圓朝の代表作とされる長編で、下総羽生村(現在の茨城県常総市)で実際にあったとされる陰惨な物語を題材にした怪談ものである。
六代目三遊亭圓生、八代目林家正蔵(彦六の正蔵)などが得意とした。
ただこれは長い噺であり、通常は断片的に口演される。先代の圓楽や志ん朝も「豊志賀の死」あたりは単独でやっていた。

歌丸は以前、全5話として口演したが、改めて全7話として“語り直し”たのがこのシリーズで、2012年の録音である。
第1話「宗悦殺し」
第2話「深見新五郎」
第3話「豊志賀の死」
第4話「勘蔵の死」
第5話「お累の自害」
第6話「湯灌場と聖天山」
第7話「お熊の懺悔」
実は圓生も正蔵も「お熊の懺悔」は口演しておらず、これをやるのは圓朝以来ではないかと自身も言っている。
歌丸があえてこれを口演したのは、新吉とお賤の結末をつけたいという理由からだそうだ。
この部分は圓朝の速記本でもわずかしか残っていないようで、歌丸本人が創作した部分が多いのだと思われる。

「真景塁ヶ淵」は登場人物が多く、人間関係が複雑で、断片的に聞いても誰と誰がどういう関係にあるのか全くわからないことが多い。
今回、7話を通して聞くことが出来たので、ようやくその全体像を掴めるようになった。
全7話を通して聞くと5時間50かかる。
これだけの企画をよく実現させたものだ。歌丸に座布団を10枚差し上げたいと思う。


さて実話とされる「累伝説」だが、とりあえずWikipediaから

下総国岡田郡羽生村に、百姓・与右衛門(よえもん)と、その後妻・お杉の夫婦があった。
お杉の連れ子である娘・助(すけ)は生まれつき顔が醜く、足が不自由であったため、与右衛門は助を嫌っていた。
そして助が邪魔になった与右衛門は、助を川に投げ捨てて殺してしまう。
あくる年に与右衛門とお杉は女児をもうけ、累(るい)と名づけるが、累は助に生き写しであったことから助の祟りと村人は噂し、「助がかさねて生まれてきたのだ」と「るい」ではなく「かさね」と呼ばれた。
両親が相次いで亡くなり独りになった累は、病気で苦しんでいた流れ者の谷五郎(やごろう)を看病し、二代目与右衛門として婿に迎える。
しかし谷五郎は容姿の醜い累を疎ましく思うようになり、累を殺して別の女と一緒になる計画を立てる。
正保4年8月11日(1647年)、谷五郎は家路を急ぐ累の背後に忍び寄ると、川に突き落とし残忍な方法で殺害した。
その後、谷五郎は幾人もの後妻を娶ったが、尽く死んでしまう。6人目の後妻・きよとの間にようやく菊(きく)という名の娘が生まれた。
寛文12年1月(1672年)、菊に累の怨霊がとり憑き、菊の口を借りて谷五郎の非道を語り、供養を求めて菊の体を苦しめた。
近隣の飯沼にある弘経寺(ぐぎょうじ)遊獄庵に所化として滞在していた祐天上人はこのことを聞きつけ、累の解脱に成功するが、再び菊に何者かがとり憑いた。
祐天上人が問いただしたところ、助という子供の霊であった。
古老の話から累と助の経緯が明らかになり、祐天上人は助にも十念を授け戒名を与えて解脱させた。







下総国岡田郡羽生村は、現在は茨城県常総市。
累の墓は、鬼怒川堤防にほど近い法蔵寺にある。
羽生山という山号が、もとの地名を連想させる。
この場所は鬼怒川の堤防が見える場所にある。今年決壊で大きな被害を出した場所の反対側である。




真ん中が累の墓で、向かって右が助、左が菊の墓。

この話にある祐天上人が滞在していた弘経寺は、記事が長くなったので次回紹介したいと思う。
なお、上の話は祐天上人が自らの法力を誇示するために脚色した話であるとも伝えられる。
祐天ゆかりの寺が目黒区にある祐天寺で、東急東横線の祐天寺駅はその寺に由来する。

ちなみに、この累伝説に由来する「累草紙」という話は、彦六の正蔵が演じている。

桂米朝師の訃報に接して


最近、桂枝雀の噺をよく聞いている。
枝雀は身振り手振りの多い、独特の語り口で人気があったが、1999年に自殺した。
彼の、実は本格的な落語が好きでよく聞いていたのだが、その死にショックを受けて、以後はあまり聞くことがなくなってしまった。
最近またよく聞くようになったが、その矢先に師匠の桂米朝が亡くなった。

米朝師は、戦後滅びかけていた上方落語の復興に力を注ぎ、「上方落語中興の祖」と言われている。
立川談志も米朝のことは尊敬していた。
米朝譲りの「持参金」のマクラで、
「ボロボロになった、それこそ右に左に飛び散ってしまったかけらを集めて来て、己という接着剤をそれに入れて、デザインも考えて作り上げた。大阪落語と言うものを立て直した上方落語中興の祖」
と、談志らしい言い方で絶賛している。


枝雀は重度の鬱病だった。
鬱病の落語家と言うのはつらいと思う。
自分は落ち込んで行くのに、客は笑わせなければいけない。
落ち込んで行くのを無視やり引き上げて行く過程があのオーバーアクションだったのだろうか。
「そのやり方ではしんどいやろ」と、米朝師も言ったという。

そう、枝雀と言うとマンガチックとも言われるオーバーアクションで有名だった。
端正で上品な語り口の米朝師とは、表面的には対照的だが、その噺をよく聞いてみれば、怖いほどに師匠の芸を受け継いでいることがよくわかる。
米朝にとって、自分の芸を引き継いでくれる枝雀という存在は極めて重要だったはずだ。
枝雀が死んだ時、NHKの追悼番組に出た米朝は「やっぱり私がやらなあかんのかな」と、しみじみ語っていた。
やはり枝雀がこうなることは、どこかで見通していたのだろうと思う。

そして今度は米朝師が逝ってしまった。
心の中に大きな穴が開いてしまった気分だ。


写真のLPレコードには
旅の噺の中でも、地獄巡りの大作「地獄八景亡者戯」、迫真の口演が聴ける「怪談市川堤」、とても奇妙な噺「次の御用日」の3編が収められている。
中でも「地獄八景亡者戯」は米朝の代表作とも言える。
この噺の中では、あの世で名人たちが勢ぞろいした寄席が開かれていて、桂米朝近日来演というくすぐりで笑わせているが、本当になってしまった。

娘のお下がり


娘が”ipod touch”を買ったので、Walkmanが下がって来た。
これで音楽を聴くつもりはないので、落語をmp3に変換したものを50タイトルほど入れてみた。
これを聴きながら散歩をする。

とりあえず、六代目三遊亭圓生の「牡丹燈籠」から「栗橋宿」と「関口屋のゆすり」を聴きながら歩いてきた。
1978年、真打の粗製乱造に反発して落語協会を脱退した圓生が落語三遊協会を立ち上げ、その第1回独演会の録音である。

圓生、志ん生、正蔵がいない現在、こういう怪談噺や人情噺の大ネタを積極的に演じている一人に、桂 歌丸がいる。
歌丸と言うと、一般には笑点のメンバー(現在は司会者)としてのイメージが強いと思うが、大ネタの演じ手として貴重な存在なので、今後もがんばってほしいと密かに念じている。

「落語 昭和の名人」第1巻-三代目古今亭志ん朝

小学館から「落語 昭和の名人」CD付きマガジンが刊行中。
隔週発売で全26巻、今年いっぱいの企画である。
落語ブームなどと言われて久しいが、昭和の名人たちの全盛期の録音が中心、本寸法のところに切り込んで来た企画であると言える。
登場する噺家は26人。
全て故人から選ばれていて、当然のことながら当代の談志、小三治、圓楽などは含まれていない。
東京の噺家中心だが、上方からは松鶴と、東京で活躍した小南が入っている。
これも健在の米朝は入っていない。
枝雀が入っていないのは残念だが、米朝が入っていないのに入れるわけにはいかなかったのかも。

巻数と人数が同じだが、1人1巻というわけではない。
1人2巻与えられているのが、
 志ん生、文楽、圓生、金馬、正蔵、小さん、馬生、志ん朝
の8人。
美濃部家だけで6巻というのはやっぱり凄い。

それにしても、第1巻が志ん生でなく志ん朝だったところにちょっと驚いた。
比較的若い聴き手には志ん生よりも馴染みが深いだろうとは思うが、志ん生から入った自分にはちょっと意外だった。

演目を見ると、それぞれの十八番を揃えている。
演目が発表になっているのは13巻まで。
最終巻が三木助になっているところに、最後は暮れの噺である「芝浜」で締めようという編集者の意図が見える。
今年の暮れは、三木助の芝浜を聞きながら旨い酒を呑みたいものである。
もちろん、夢にならないように。。。



とりあえず、第1巻から
華があり、艶があり、何ともいえない色気のある噺家だった。
変な表現だが、自分が女だったら絶対惚れるだろうと思う。
口跡も良く、啖呵も切れ、誰が聴いても面白い、理想の芸と言ってもいい。

この本の中には、文楽が志ん朝を評して、圓朝を継ぐのは彼しかいない、と語っていたという面白い逸話が紹介されている。
圓生を買っていなかった文楽がそんなことを言っていたというのはとても興味深い話である。
圓生よりも志ん朝の方が上だ、という文楽の意思表示か?
一方、その圓生も志ん朝を非常に高く評価していたようである。

収録されている録音は、40歳前後の脂が乗り切った頃の録音で、やっぱりいいものを選んでいると思う。
これを聴いて面白くなければ、落語はあきらめた方がいいかも知れない。
あまり落語を聴いたことがないと言う人は、ぜひ一聴を薦めたい。
■夢金
「ああ、夢だった」という話は「鼠穴」「心眼」「夢八」「夢の酒」など数多い。
ここでの主人公は強欲な船頭だが、一面憎めないところがある人間である。
船頭が出てくる噺でも「船徳」は初夏の噺で、暑いというところの表現が必要。
こちらは寒い雪の夜であって、その寒さ、冬の夜の静けさまでを表現するのが芸の真髄だろうか。

■品川心中
客を客とも思わない海千山千の花魁と、間抜けな客が心中するという噺。
客は結局一人で海に飛び込む羽目になり、女は金が出来たので逃げてしまうというひどい話。
男は命からがら親分のもとに逃げ帰り、ドタバタのひと騒動があって、そこで笑わせて切る。
多くの録音と同様、志ん朝もここで切っているが、本来はこの先があり、女に仕返しに行くことになる。
「品川心中」は名作であるだけに多くの噺家が手がけているが、志ん朝のものが最高と言われているらしいが、この録音を聞けば納得。

第2巻は志ん生
現在、第4巻まで出ている。

落語のコレクションをパソコンに移すの記


えー、面白くも何ともない話を一席。

なんか、落語ブームだそうですな。
そんなことはあるまいと思うんですが、お若いご婦人なぞが寄席にお出かけになるらしいんですな。
どうもテレビドラマなんぞの影響が大きいんだそうで。
ご婦人がたは流行に敏感ですからな。
ただ醒めるのも早いんで、噺家連中もあまり浮かれてるとロクなことはありませんよ。

あたくしなぞは昔からの落語好きですが、楽しみ方は何の変哲もないんです。
昔の名人上手の録音を繰り返し聞いて楽しんでいるだけ。
カビの生えたようなファンですな。

あたくしは志ん生や金馬から入りましたもんで。
金馬って、もちろん先代ですよ。
友達のうちにLPがありましてね、借りて聞いたところが、これが面白いの何の。
早く言えばバレ噺みたいなものでしたけどね。

それに昔はテレビでもラジオでも、落語番組がよくありましたもので。
志ん生や金馬はその頃すでに故人でしたが、円生、小さん、馬生や先年亡くなった志ん朝なんかの高座がしょっちゅう放送されていたんですから、今から思うと贅沢なもんですな。
黒門町の良さはそのころはわからなかったですね。ずっとあとになってからですね。
稲荷町の師匠も若い頃のを聞くといいですね。今では大好きな師匠ですよ。
当代の談志師匠なんか、あとから録音を聞いて凄さがわかりましたね。
あの頃は選挙に出てましたからね。本格的に聞く機会がなかったんですな。

今のテレビなんか、見るもんありませんな。
よくまああんな下らない番組を毎日毎日流して恥ずかしくないもんです。
たとえばですけどね、TBSなんか、昔の名人上手の高座のビデオを山ほど持ってるんです。
もったいないことですな。

そういうのは全部カセットテープに録音してあったんですよ。
ただね、これはあんまり保存にはいいもんではありませんね。
伸びちゃったり、からまって切れちゃったりね、随分ダメにしましたよ。
もったいないことをしましたな。

何年か前に、全部MDってやつに移したんですよ。
今200本以上のMDが手元にあるんです。
ところが、このMDというのも将来的にどうなるかわかりませんよね。

落語はそんなに音質を気にしないんですから、iPodとか言うデジタルプレーヤーに収めてしまうのがよさそうだと思ったんです。
iPod、まだ無いんですけど。
とりあえずパソコンに取り込もうと思ったわけです。

デジタルオーディオプロセッサーなるものを買って来ましてね。オンキョーのSE-U33GXPというやつです。
パソコンと、MDやアナログプレーヤーの間に接続するんですが。
パソコンとはUSBでね、MDやアナログプレーヤーとはピンケーブルでつなげるんです。
フォノイコライザーが入ってるんで、アナログプレーヤーが直接つなげるいう便利なもんですが、今の人はわからんでしょうね、この話。

パソコン側で録音するために、専用のソフトが付いてるんですが、CDドライブがおかしいのか、どうしても読み込めないんですよ。
しょうがないので、とりあえず「超録」っていうフリーソフトを使ってみたんですよ。
これでパソコンの中にMP3形式で録音してる所なんです。
まあ、今年中に全部できるかどうか、というところですけどね、そのうち携帯プレーヤーを買ってそっちに移そうと思ってるんです。
10Gぐらいで全部入っちまうんじゃないか、と思うんですけどね。

LPレコードも、これはほとんど全部クラシックですけど、1000枚ぐらいあるんです。
これもCDで持っていないものは、デジタル化した方がいいかなとも考えてるんですけどね。
ビデオなんかもっとひどいですよ。
うちの娘の子供時代の映像なんて、8ミリビデオですから、今じゃ再生できませんよ。
以前、DVDに保存も考えたんですけど、すでにDVDの将来性に疑問がありますからね、どうしろって言うんですかね。

林家こぶ平の、九代目林家正蔵襲名に関して

林家こぶ平が九代目林家正蔵を襲名する。
世間では好意的に受け止められているようだが、少し異論を唱えさせていただく。
こぶ平は、七代目(ななだいめ、ではない、しちだいめ)林家正蔵の孫に当たる。
その意味では、九代目襲名は筋論としてはおかしくはない。
七代目林家正蔵は名人だったらしい。
昭和の大人気噺家であった、林家三平はその息子である。
三平の落語は地噺といって、一般の古典落語ではない。一種の漫談に近いものである。
三平の芸は一種独特の名人芸であって、否定するものではなく、私も別に嫌いではない。

八代目林家正蔵のことを考えて見たい。
彼が、蝶花楼馬楽を名乗っていたころのことである。
先年亡くなった五代目柳家小さんの名跡問題があった。
彼は、若くして小さんという大きな名跡を継ぐことになった。
それには色々と、異論があったらしい。
ひとつは、「こんな大名跡を若くして継いで、うまくいかなかったらそのあとに継ぐ名前はない」ということである。
だが、これは本人の実力次第の問題であって、事実小さんは大看板(おおかんばん)になったのだから杞憂であったと言える。
もうひとつは、若い小さんよりも年も格も上の蝶花楼馬楽の方が、名前が格下だということであった。
馬楽にふさわしい、もっと大きな名跡はないか、という議論になり、七代目が亡くなって空いていた林家正蔵の名跡に白羽の矢が当たったわけだ。
かくして、蝶花楼馬楽は八代目林家正蔵を襲名する運びとなった。

今では「彦六の正蔵」として知られる八代目は、江戸っ子を絵に描いたような人物で、最もいい意味での頑固者で律儀な人物だった。
長屋に住んで、都電の定期で寄席に通い、プライヴェートでは定期を使わなかったという人物である。
「林家正蔵」という名前は本来、三平が継ぐべきものであり、自分は三平の家から借りているんだという意識を持っていて、いずれは返そうと考えていたのである。
ところが、想わぬことに自分より若い三平の急死により、そのタイミングを失った八代目は、数年間思い悩んだ挙句、この大名跡を返上したのである。
本来あり得ないことである。歌舞伎の世界で言えば、団十郎がその名を返上したようなもの。
本人曰く「名無しというのも変だから、何か名前をつけなければいけないと考えましたら、昔<彦六大いに笑う>という映画がありまして。落語家だから大いに笑うなんでいうのはとてもいいんじゃないか」
という考えで、初代林家彦六という名前を勝手に考えて名乗ったわけだ。
地位や名誉にとらわれない、「彦六の正蔵」のこんな考え方、生き方に共感する人は多いのではないだろうか。
このような経緯を踏まえても、こぶ平が九代目を継ぐことは、八代目の意思にも合っていることだし、別に異論はない。
でも、八代目の矜持を思えば、こぶ平は「自分はいまだその任にあらず」というのが本当ではないか。
確かに、最近のこぶ平は芸に精進していると聞く。
九代目襲名に備え、大きな噺にも積極的に挑戦しているという。
それはいいとしても、順序が逆ではないか。
本来、「この人はいい芸をもっているから、この名前を継がせよう」というのが筋であったはずだ。

惜しくも亡くなった二代目志ん朝を思い出してほしい。
一世を風靡した名人、六代目志ん生の次男であり、その実力は折紙付きであった。
大袈裟でなく、志ん朝こそ落語の歴史上最大の名人と言っても過言ではない。
もちろん、志ん生とは違う。志ん生は唯一志ん生であって並ぶものの無い存在であった。
しかし、志ん朝はまた唯一志ん朝だった。
志ん朝が七代目古今亭志ん生を襲名するという話ならば、どこからも文句の出ようのない、素晴らしい話だったはず。
ところが、志ん朝は継がなかった。なぜか。
志ん朝ほどの名人にして、父親である志ん生は余りにも大きな存在だった。真実、七代目襲名は怖かったのである。

こんな話がある。
志ん朝が死ぬ直前、談志と飲んでいる時、談志が「そろそろ継いだらどうだい」と水を向けると「兄さん(あにさん―談志のことをそう呼ぶ)が襲名披露の口上をやってくれれば」と半ば冗談で言った。
いい話に聞こえるけれども、裏がある。
談志は落語教会を飛び出した人物だから寄席には出られない。襲名披露の口上なんかできるわけがないのである。
それを前提にした話であって、婉曲に断ったわけである。

彦六の正蔵や志ん朝の志の高さを想うとき、こぶ平の九代目襲名を果たして祝っていいものかどうか、落語を愛する人は少し考えてみるべきではないか。

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